Q1
宗教は最初はどんなに立派でも、時が経つと腐敗すると言われていますが、どうしてですか?
A1
腐敗の意味によります。
まず、世間の人達が言う腐敗は、二代目、三代目の教祖や幹部が私腹を肥やし、集金ばかりに夢中になり、理念とかけ離れた行動をしている、というような時に、腐敗した、と言うのです。
初代がどんなに立派でも、二代目、三代目になると、そうした事が起きやすくなります。
ですが、霊的な視点でいう腐敗は別です。
霊魂学的に言えば、正しい宗教は高級な幽気、あるいは高貴な霊気が降りる宗教です。
ですから、そうした幽気や霊気が降りなくなった時が、霊的な意味での腐敗になります。
動画「宗教Q&A – 霊的に正しい宗教の見分け方 -」をご覧ください。
極端に言えば、幹部達がどれだけ自分の私腹を肥やす事に奔走していても、宗教本来の霊的な目的からずれていなければ、腐敗とは言えません。
私腹を肥やす事は善い事ではありませんが、それ以上に、宗教本来の霊的な価値がなくては意味がありません。
世間で言う腐敗は、霊魂や神の実在を考えていませんので、腐敗といっても、この世の問題だけを言うのです。
Q2
私腹しか考えない幹部のいる宗教に、高級な幽気が降りますか?
A2
人数によります。
教祖や幹部が全員、そうした人であれば、高級な幽気は降りません。
ですが、一人や二人、道を外す人がいても、それで高級な幽気が降りない、というものではありません。
人間には欲望があります。ですから、教師でも警察官でも道を外す人はいます。ですが、だからといって警察がなくては困ります。
宗教団体に道を外す人が出たとすれば、一刻も早く、軌道修正すれば良いのです。
そうした事よりも大切なのは、霊気な面です。
ですが、この世の人は霊的な事が分かりません。そうであれば、せめて、開祖に立ち返る事を忘れてはいけません。
Q3
宗教は開祖と離れてしまう事があるのですか?
A3
よくあります。
キリスト教であれ、仏教であれ、宗教経典に開祖の姿は発見できません。
ですから、いろいろな宗派ができてしまいます。経典の解釈が違うからです。
いろいろな解釈ができるので、宗派が増えるのです。
例えば、仏教の場合は、物凄く多くの経典があります。
それらは実際には、お釈迦様の説ではない、という学者さんがいます。
原始仏典以外は、お釈迦様が亡くなってから、仏教学者が作ったものだ、という説です。
一方で、お釈迦様は多くの説教をしたけれども、最後に説かれた経典が一番だ、と言って譲らない人もいます。
お釈迦様は死後の世界を説かなかった、という学者もいれば、そうではない、という学者もいます。
どうしてこんなに説が違ってしまうのでしょうか?
それは、お釈迦様が自分で書いた経典ではないからです。
お釈迦様がこうおっしゃった、私はこう聞いた、という言葉で始まるのが仏典だからなのです。
お釈迦様が自分で書いていないのだから、弟子が正しく理解した、という保証すらありません。何しろ、その当時の一般の人は文字を使用していない、という説もあります。
そうなると、どこまでがお釈迦様の説なのか、まるで分かりません。
弟子によっては勘違いして覚えた人もいるでしょう。
経典の数が多ければ多いほど、いろいろな人がいろいろな事を言い出します。
小乗はレベルが低く大乗が高いとか、大乗はお釈迦様の説ではないから信じてはいけないとか、どれを信じて良いのかさっぱり分かりません。
一方で、修行を説きながら、別の経典では、アミダブツと唱えれば救われる、と説きます。
普通に考えれば、別の宗教です。
時間が経つと、真実が分からないので、いろいろな解釈が出てしまうのです。
キリスト教でも同じです。
新約聖書の福音書はイエス師が書いたものではありません。
イエス師が亡くなられて数十年も経ってから、弟子によって成立しています。
どの程度、正確なのか、はっきりしません。弟子が大袈裟に書いたのかもしれないのです。
奇跡の話が全て本当とは思えません。
更には、聖書と呼ばれたものは他にもあるそうです。そうした中で振り落とされたものの中に、本当の事が書かれていた可能性も、ないとはいえません。
いずれにしても、昔の事ははっきりとは分かりません。
結局、開祖の書いた本ではない事が問題なのです。
開祖に帰ろうとしても、開祖の真意は何だったのか、偉い聖職者であっても、決して分からないのです。
Q4
宗教の腐敗を防ぐ為には、開祖の言葉や文字を残すべきですね。
A4
そうです。
ですが、それでも問題が起きます。教えを主体とした宗教は、時代に合わなくなる時が来るからです。
そうなると、開祖に従うのか、新しい時代に合わせるのか、幹部達が対立してしまうのです。
Q5
契山館はどうですか?
A5
契山館は教えは説きません。
霊魂学は教えではありません。
契山館は神伝の法と呼ばれる霊的修行法の会です。
宗教を外から見て批判するのは簡単です。
ですが、宗教であっても人間の集団です。
人間には欠点もミスもあります。
それを前提とした上で、より良い集団を作る努力が必要なようです。
誰であっても欲望があります。
あの人よりも上の立場になりたいとか、負けたくないとか、そうした意識があると、無意識的にライバルの足を引っ張ってしまう、そうした人もいると思います。
そうした事は正しい事ではありません。
ですが、人間はそうした面も持っています。
人間の集団は、どんな集団であっても、一人一人が反省しながら、高貴なる存在の方向を向いて一歩一歩、前進するしかないように思えます。