Q1
教会は悪でも、聖書は良い本ですか?
A1
霊的には読む価値はありません。
ですが、社会常識として、多少は読んでおくと、キリスト教国の人達の考え方を理解しやすいかもしれません。
Q2
霊魂学的には正しいとは言えないのですか?
A2
そうです。
まず、勘違いしてはいけないのは、聖書はイエス師が書いた本ではない、という点です。
そうなると、中には参考になる文章もあるかもしれませんが、事実とか、真実とか、そういう視点では、価値はない、という事になります。
例えば、ある教祖が大勢の信者の前で演説したとします。
その内容は感動的な内容でした。
それは、それまでに聞いたことのない話だった為に、信者達は驚きました。
ですが、録音器具がありませんでした。
さて、一年後、信者達が集まりました。
あの時の話はどんな話でしたか、と聞いてみました。
すると、皆、違う事を言うのです。
なぜならば、熱心な人ほど、別の日の話を何度となく聞いています。教祖の演説を毎回聞いているという人もいます。
そして、そうした人ほど、別の話と混ざってしまい、勘違いしてしまうのです。
熱心な人が数名集まると、皆、話の内容が違っているのです。
こうした事はよく起きるのです。
イエス師の生きた時代は二千年前です。
録音もできません。文字を書ける人はどのくらいいたのでしょうか。
個人の記憶はあいまいです。
それなのに、聖書を書いた人達は、イエス師が死んでから随分経ってから本を書いています。これでは、信憑性は低いと言わざるを得ません。
そうなると、話の一言一句を読んでも、それは正確ではありません。
Q3
新約聖書にイエス師の本心は入っていますか?
A3
多少はあるかもしれません。
ですが、イエス師の思いを表しているとは思えません。
イエス師は信者達の師匠です。側にいた弟子ですら、師匠の思いや理想について、どの程度理解できていたのでしょうか。
師匠が偉大であればあるほど、弟子では理解し得ないものです。
簡単に理解できるのであれば、その師匠は偉大ではありません。普通の人間です。
ところが、新約聖書を書いた人達は、その頃の平均寿命を考えると、書かれた年代から見て、側にいて直接聞いていたとは思えません。
そうなると、直接見聞きした訳ではありません。
その場合は、現代の本であれば、誰から聞いたとか、出典は○○とか、書かねばなりません。
そうした事は何も書かず、さも、直接見たような書き方になっています。
こうした本を信じてはいけません。
Q4
全て嘘とは言えないまでも、信用するレベルではない、という事ですか?
A4
そうです。
考えてもみてください。
処女マリアは神の子を身ごもりました。
大天使がそれをマリアに告げたそうです。
この話は、現代人から見れば、浮気をした言い訳にすぎません。
仮に、神による奇跡であったとしても、そうであれば、大天使との会話を誰かが見たのでしょうか。
聖書の著者がその現場にいましたか。
いなかったはずです。
そうであれば、誰から聞いたか、それを示す必要があります。
自分が現場にいないのに、見たかのように書かれた文章は信用するべきではありません。
☆分かりました。