霊魂学から見た宗教 3 聖書

Q1

教会は悪でも、聖書は良い本ですか?

A1

霊的には読む価値はありません。

ですが、社会常識として、多少は読んでおくと、キリスト教国の人達の考え方を理解しやすいかもしれません。

 

Q2

霊魂学的には正しいとは言えないのですか?

A2

そうです。

まず、勘違いしてはいけないのは、聖書はイエス師が書いた本ではない、という点です。

そうなると、中には参考になる文章もあるかもしれませんが、事実とか、真実とか、そういう視点では、価値はない、という事になります。

例えば、ある教祖が大勢の信者の前で演説したとします。

その内容は感動的な内容でした。

それは、それまでに聞いたことのない話だった為に、信者達は驚きました。

ですが、録音器具がありませんでした。

さて、一年後、信者達が集まりました。

あの時の話はどんな話でしたか、と聞いてみました。

すると、皆、違う事を言うのです。

なぜならば、熱心な人ほど、別の日の話を何度となく聞いています。教祖の演説を毎回聞いているという人もいます。

そして、そうした人ほど、別の話と混ざってしまい、勘違いしてしまうのです。

熱心な人が数名集まると、皆、話の内容が違っているのです。

こうした事はよく起きるのです。

イエス師の生きた時代は二千年前です。

録音もできません。文字を書ける人はどのくらいいたのでしょうか。

個人の記憶はあいまいです。

それなのに、聖書を書いた人達は、イエス師が死んでから随分経ってから本を書いています。これでは、信憑性は低いと言わざるを得ません。

そうなると、話の一言一句を読んでも、それは正確ではありません。

 

Q3

新約聖書にイエス師の本心は入っていますか?

A3

多少はあるかもしれません。

ですが、イエス師の思いを表しているとは思えません。

イエス師は信者達の師匠です。側にいた弟子ですら、師匠の思いや理想について、どの程度理解できていたのでしょうか。

師匠が偉大であればあるほど、弟子では理解し得ないものです。

簡単に理解できるのであれば、その師匠は偉大ではありません。普通の人間です。

ところが、新約聖書を書いた人達は、その頃の平均寿命を考えると、書かれた年代から見て、側にいて直接聞いていたとは思えません。

そうなると、直接見聞きした訳ではありません。

その場合は、現代の本であれば、誰から聞いたとか、出典は○○とか、書かねばなりません。

そうした事は何も書かず、さも、直接見たような書き方になっています。

こうした本を信じてはいけません。

 

Q4

全て嘘とは言えないまでも、信用するレベルではない、という事ですか?

A4

そうです。

考えてもみてください。

処女マリアは神の子を身ごもりました。

大天使がそれをマリアに告げたそうです。

この話は、現代人から見れば、浮気をした言い訳にすぎません。

仮に、神による奇跡であったとしても、そうであれば、大天使との会話を誰かが見たのでしょうか。

聖書の著者がその現場にいましたか。

いなかったはずです。

そうであれば、誰から聞いたか、それを示す必要があります。

自分が現場にいないのに、見たかのように書かれた文章は信用するべきではありません。

☆分かりました。

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