仏像を造ると、魂を入れる、という儀式が行なわれるそうである。
造っただけでは、どんなに立派にできても、ただの物だからである。
しかし、魂を入れる、という事が問題になる。
第一、木や金属の像の中に魂が入るという事があり得るのであろうか?
あるはずがない。
物に魂は入らない。
では、魂を入れたとされる仏像でも、ただの物なのであろうか?
実は、ただの物ではない。
なぜならば、儀式を行なった僧侶や出席者の念がそこに集中するからである。
実は、制作者の念も付いている。
その後、信者が拝むようになれば、信者達の念も付く。
付くといっても、念は幽質なので、その辺りにあるだけなのであるが、とにかく念がそこにある。
そうなると、霊魂の目にも入る。
霊魂の目に入れば、それは霊的な物品になっている。
霊魂が人間の念を利用して何かしたり、霊魂の幽体に付いている幽気を仏像に付けたりするからである。
幽気はなかなか物品には付かないらしいが、仏像は動かないので、その辺りにとどまるらしく、仏像に幽気が付いている、と言っても良いような状態になるらしい。
そうなると、問題は仏像に付いた幽気の性質である。
この性質が高級であれば、高級霊魂の視界にも入り得る。
逆であれば、下の世界の霊魂の視界に入る。
結局、僧侶や信者の幽体の性質が決め手になるのである。
魂を入れたとする僧侶の幽体の性質が高ければ、念の性質も高く、低ければ、念の性質も低い。
拝む信者達の幽体から出る念の性質も影響する。
現代の場合は、もちろん、全てにおいて低い。